言葉などもう無いだろう
以前にも紹介したんですけどね。
動画の流れはこうです、1曲目はドルフィンソングというDr.Heads World Towerに収録された1曲目。
(アルバムでは、さながらこれからこのアルバムでおこる指し示す曲だろうか?)
そしてドルフィンソングを構築している楽曲たち。
2曲目は同じくDr.Heads World Towerより最後の曲、The World Towerへと繋がる楽曲たちからはじまり、
最後にThe World Towerへとつながり終わる。
長いので何か作業するときやネトゲでもするときにBGMにでもしてみてください。
フリッパーズギターの『ヘッド博士の世界塔』 「胸に残る20世紀ポップス&ロック(1305)」
http://plaza.rakuten.co.jp/ken5551/diary/200508210000/より引用
現在時点で最新であるロックが、実は昔既に鳴らされたロックであるということ。またサンプリングとは昔既に鳴らされた音を再構築するということでもある。それは言葉を変えると既に鳴らされた音楽の組み合わせを変えるということにすぎない。
彼等はこのアルバムの冒頭にこの曲を持ってくることによって、その当時の最大のニヒリズムを表現してしまった。それは例えば『東京トンガリキッズ』という小説集の中で語られたニヒリズムと同じものである。「あらゆることは書かれ、あらゆることは語り尽くされた。もう新しいものなどない。残されたもの、それはコピーにすぎない。」
つまり1991年には、今まで聴いたことのない新しい音楽を作る事はできない。鳴らされるべき音はもう既に鳴らされてしまった。そんなロック進化論の破産宣告を彼等はここで表現してしまったわけである。
<-中略->
新しい音楽がないのであれば、既に鳴らされた音楽の中で自分が一番好きな音楽を「選択」して、それを血肉化していけばいい。それが小沢健二の選んだ道である。
新しい音楽がないのであれば、もう音楽を鳴らす事をあきらめた方がいい。それが小山田圭吾ことコーネリアスの選んだ道である。コーネリアスが一九九七年に発表した『ファンタズマ』以降の作品には、そうした思想が具体的に実を結び始める。そこに収録された音楽は心地のよい「音」とでも表現した方がいい音楽である。音楽ではない音楽を鳴らす事。それがコーネリアスの辿り着いた答えである。
そうして『ヘッド博士の世界塔』が発表されて十数年のときが過ぎた。このアルバムは時代の最先端を義務付けられた「ロック」という表現の中で、再極北のニヒリズムを体現した作品としていまだに色褪せる事がない。
関連項目
フリッパーズギター/ポストパンク/ネオアコ/不立派ーず